ハーバーマス精読講座のお知らせ
◆「ハーバーマスを読む ―カント論を中心に― 」
この講座では、「差異に敏感な普遍主義」を掲げるユルゲン・ハーバーマスのいくつかの議論を、カント論に焦点を当てながら紹介する。具体的には、2003年(原著は1996年)に上梓された『他者の受容』に収められている国民国家の未来や人権、そして民主制についての議論を取り上げる。もとより限られた時間では、ハーバーマスの長年の研究活動のすべてを解説することはできないが、この著作のテーマである「他者を受容し、差異とともに生きる論理はいかにして可能か」という問いは、ハーバーマスにとっての根本問題であるので、それについて学ぶことは、ハーバーマスの諸議論の輪郭を大きくつかみ出すことにもつながろう。それゆえ、この講座では、細部に拘泥することなく、大胆に読み飛ばしながら、まずはぼんやりとでも良いので輪郭線を見つけて頂けるように各回を進めていくことにしたい。 初回は、テクスト解説に先立ち、「差異に敏感な普遍主義」を理解する導きの糸として、ハーバーマスが踏まえている諸前提について若干の解説をする。また、各回毎にレジュメを配布する予定である(堀内・記)。
この講座では、「差異に敏感な普遍主義」を掲げるユルゲン・ハーバーマスのいくつかの議論を、カント論に焦点を当てながら紹介する。具体的には、2003年(原著は1996年)に上梓された『他者の受容』に収められている国民国家の未来や人権、そして民主制についての議論を取り上げる。もとより限られた時間では、ハーバーマスの長年の研究活動のすべてを解説することはできないが、この著作のテーマである「他者を受容し、差異とともに生きる論理はいかにして可能か」という問いは、ハーバーマスにとっての根本問題であるので、それについて学ぶことは、ハーバーマスの諸議論の輪郭を大きくつかみ出すことにもつながろう。それゆえ、この講座では、細部に拘泥することなく、大胆に読み飛ばしながら、まずはぼんやりとでも良いので輪郭線を見つけて頂けるように各回を進めていくことにしたい。 初回は、テクスト解説に先立ち、「差異に敏感な普遍主義」を理解する導きの糸として、ハーバーマスが踏まえている諸前提について若干の解説をする。また、各回毎にレジュメを配布する予定である(堀内・記)。
- 担当者: 堀内進之介
- 場所: 朝日カルチャーセンター 新宿教室
- 期間・曜日・時間: 10/16、10/23、11/27、12/25 (木:19:00〜20:30 全4回)
- 参考書:『他者の受容』・『ブリッジブック社会学』
- 必要箇所はコピー教材として実費で配布。ご購入はご自由です。
- 申し込みはこちら!
シリーズ講座のお知らせ
◆「シリーズ:社会(科)学のラディカリズム」
●テーマ: グローバル化の不可避性− ロールズとウォーラーステイン
●担当者: 宮台真司・ 堀内進之介
●期間・曜日・時間: 7/26→8/2に変更, 8/23, 9/27 (土:19:00〜20:30)
●場所: 朝日カルチャーセンター 新宿教室
● 申し込みはこちら!
冷静と情熱のあいだ
そういえばそんな名前の小説があった、とふと懐かしく思い出した。ベタな話だが、研究を続けるには情熱が必要で、一方で冷静に距離をとることも求められるだろう。
修士課程のとき、ゼミで指導教官に、「大学院になんて来る奴は、たいてい強迫的な思い込みを持っている。それを勉強することで解除していって、それでも研究したいと思う奴が博士にくるんだ」というようなことを言われたのを覚えている。
これは正確には、博士課程に入ろうとする人間の属性というよりも、博士課程に入る人間の条件になるわけだが、なるほどと心底思った。そしてたまに思い出して自らに問いなおす。
修士まではとにかくがむしゃらに駆け抜けることはできるだろうが、博士に入れば、当たり前だがそれだけで行くわけにはいかなくなる。情熱を失わず、距離をとり、冷静に堅実に研究を続けていく必要があるわけだが、冷静に考え距離をとり、いろいろなことを勘案すればするほどに、妙な脱力感や徒労感に襲われて道を見失いそうになる。しかし、参ったことに、博士に入ってしまうと年齢的にも様々な選択肢が閉ざされていく。恐ろしい話。
ウェーバーは『職業としての政治』で、「それでもなお」と世界に立ち向かえることを政治家の資質として求めた。それに比べればささやかな営みかもしれないが、情熱を維持しつつ冷静さを失わず、それでもなお、と呟きつつ研究を続けることの重要性は痛感する。思うに任せないことは多く、日々の雑事に追われることも多い。情熱を失って辞めていった人たちもいれば、情熱を諦めて辞めざるを得なかった人たちもいる。それでもなお、研究をしようとしている私が引き受けるものは何か、と思う。
「彼(引用者注:ウェーバー)の『強さ』は、あのミケランジェロの『最後の審判』に描かれた永劫の罰を受けた男と同様に、現代という時代を正面から見えすえた点にある。それゆえ、『職業としての学問』がウェーバー自身にとって意味したことは、時代の証言者たれ、ということである。非の打ちどころのない学問的考察をしたからといって、脅威を払いのけることはできない。が、そのことによって脅威に耐えることはできる。いや、証言者になることは、さらにそれ以上のことを意味する。証言するものは『憧れること』をやめないのだ。しかもその『憧れ』こそ、ニーチェによれば、人間を人間たらしめるものなのである」
ポイカート『ウェーバー 近代の診断』p79
夏バテで気力が萎えそうになったり、寒さで気分が塞ぎこむようなときには、たまにこの言葉を思い出して自らを省み、研究の軌跡を意義づけ、進むべき方向を考える。明るい気持ちになるわけではないが、自然と背筋が伸びる。
幸いにして、今年の夏は忙しく、物思いにふける暇もないが。
修士課程のとき、ゼミで指導教官に、「大学院になんて来る奴は、たいてい強迫的な思い込みを持っている。それを勉強することで解除していって、それでも研究したいと思う奴が博士にくるんだ」というようなことを言われたのを覚えている。
これは正確には、博士課程に入ろうとする人間の属性というよりも、博士課程に入る人間の条件になるわけだが、なるほどと心底思った。そしてたまに思い出して自らに問いなおす。
修士まではとにかくがむしゃらに駆け抜けることはできるだろうが、博士に入れば、当たり前だがそれだけで行くわけにはいかなくなる。情熱を失わず、距離をとり、冷静に堅実に研究を続けていく必要があるわけだが、冷静に考え距離をとり、いろいろなことを勘案すればするほどに、妙な脱力感や徒労感に襲われて道を見失いそうになる。しかし、参ったことに、博士に入ってしまうと年齢的にも様々な選択肢が閉ざされていく。恐ろしい話。
ウェーバーは『職業としての政治』で、「それでもなお」と世界に立ち向かえることを政治家の資質として求めた。それに比べればささやかな営みかもしれないが、情熱を維持しつつ冷静さを失わず、それでもなお、と呟きつつ研究を続けることの重要性は痛感する。思うに任せないことは多く、日々の雑事に追われることも多い。情熱を失って辞めていった人たちもいれば、情熱を諦めて辞めざるを得なかった人たちもいる。それでもなお、研究をしようとしている私が引き受けるものは何か、と思う。
「彼(引用者注:ウェーバー)の『強さ』は、あのミケランジェロの『最後の審判』に描かれた永劫の罰を受けた男と同様に、現代という時代を正面から見えすえた点にある。それゆえ、『職業としての学問』がウェーバー自身にとって意味したことは、時代の証言者たれ、ということである。非の打ちどころのない学問的考察をしたからといって、脅威を払いのけることはできない。が、そのことによって脅威に耐えることはできる。いや、証言者になることは、さらにそれ以上のことを意味する。証言するものは『憧れること』をやめないのだ。しかもその『憧れ』こそ、ニーチェによれば、人間を人間たらしめるものなのである」
ポイカート『ウェーバー 近代の診断』p79
夏バテで気力が萎えそうになったり、寒さで気分が塞ぎこむようなときには、たまにこの言葉を思い出して自らを省み、研究の軌跡を意義づけ、進むべき方向を考える。明るい気持ちになるわけではないが、自然と背筋が伸びる。
幸いにして、今年の夏は忙しく、物思いにふける暇もないが。
『論座』 危機の民主主義を問う
首席研究員 堀内進之介
以下は、『論座 7月号』に載った宮台真司先生との対談からの抜粋です。私の発言箇所のみUPします。
堀内 宮台さんはシステム理論がご専門です。私は批判理論が研究のベースにあります。もともと、この二つの学説は対立していると思われていましたが、今では、相互に相手の良いところを取り込みながら、あるていどベースを共有していると言えます。ですから、宮台さんと私の関係は、一方が受け手で他方が応答者というわけではなく、片方が何かを擁護し、もう一方が批判するという関係でもありません。ボケと突っ込みが状況に応じて入れ替わるような対談になると思います(笑い)。少し補足すると、フランクフルト学派の批判理論はナチズムの「悲劇」を国家権力の横暴のせいにせず、理性的啓蒙の伝統に帰する点で、いわばヴェーバーの合理論をラディカルにした哲学版だといえます。「精神分析」と「マルクス主義」の影響を受けつつ、ヴェーバーの意味と自由の喪失をラディカルに問う、そうした学派です。もっとも、第二世代のハーバーマスは、理性が反転して災厄となる歴史を運命的なものとせずに、歪められたコミュニケーションの歴史として理解するわけですが。
堀内 本題に入る前に、いわゆる「論壇」についてちょっと確認しておきたいと思います。この対談自体も「論壇」誌と呼ばれる雑誌に掲載されます。すこし前になりますが、1月19日付朝日新聞に「30代の若手論客が政治化している」という趣旨の記事がでました。私も30代ですが、同年代の「若手論客」、やや年上の35、6歳の人たちが論壇の中心を担っている。何をもって「政治化している」といわれるのかは私には分かりませんが、いわゆる新しい「論壇誌」が次々発刊されているのは事実です。こうした論壇を担おうとしている生真面目な方々は、以前であればハーバーマスがサロンとか公共空間と呼んだようなもの、つまりある種の討議場を目指しているのかもしれません。例えば「αシノドス」というメールマガジンを立ち上げた荻上チキさんたちがいます。若手研究者が自活して発言していくことは大変難しい状況なので、できるだけ機会を提供しようという試み自体には共感します。実際、私も研究者仲間と「現代位相研究所」を立ち上げました。社会的にどんな意味があるかはともかく、切磋琢磨できる環境をつくるということは重要なことです。
堀内 同じことを年下である私が言うと、今度は「お前は恵まれているからだ」という批判が返ってきます。あるいはその通りで、恵まれているのかもしれません。どういう意味で「恵まれている」かというのは相対的な問題で、持っていない人から見れば持っている人はうらやましく思えるに決まっているからです。でも、私と同世代の「若手論客」の中には私や宮台さんの疑問も折り込み済みで、それでもなおかつ本当に恵まれない、不幸な人たちを何とかしようと真剣に考えている方が大勢いることは間違いない。ただ、そのことを踏まえたとしても、彼らのまっとうな心情から提出されてくる議論の、あまりの現実味のなさに驚くことが多々あります。例えば、基本的な所得を国家が再分配しろというベーシックインカムの議論がありますよね。
堀内 『VOL』(以文社)という雑誌では、ベーシックインカムの可能性がさかんに論じられています。その一方「福祉国家をもう一度」という議論も相変わらずあります。
堀内 「福祉国家」が何を意味するかは多義的ですが、すくなくともかつて「福祉国家」の主張が可能だった時代と現在の世界経済の状況は全く違います。グローバリズムを踏まえた上で「ベーシックインカム」が可能だと論証できるのであれば別ですが、どうも説得力がない。「格差が広がっている」。そうかもしれません。「その手当てをしなくてはならない」。その通り。しかし、そうであれば、格差をなくすために国際資本をどれだけ競争的に獲得するか、という話も「ベーシックインカム」と同じように考えられてもよいはずです。政治学者や経済学者であればそう考えるでしょう。国際的な格差が縮まれば国内的な格差はひろがり、国内的な格差を縮めようとすれば国際的な格差は必然的にひろがります。ヨアヒム・ヒルシュのように左翼でもレギュラシオンのフランクフルト派に属している人々の中には、国際資本を誘致することは様々な社会政策を可能にするための、いまや不可避な課題となったと指摘する人もいます。国際資本を獲得するためには国民を総動員する「権威主義的な国家」である他ないと。皮肉なことにヒルシュは「左翼」であるにもかかわらず、左翼のきまじめな反国家的・反制度志向が、却ってこのような事態を招いているという議論に踏み込んでいます。もちろん、彼は左翼の試みがすべて悪いと言っているわけではありません。ですが、国内格差を縮めるためには国際資本を誘致するより他に方法がないかもしれない時に、市民社会の潜在力に期待したり、民営化をその成果と見做すような左翼の稚拙さには厳しい批判を呈します。ヒルシュは、「世界国家」の樹立でも、資本主義に代わる地球まるごと包み込むようなシステム革命でもなんでも、やれるもんならやって打ち立ててごらんなさい、という挑発的な言い方さえしています。彼にとって社会の自律や、国家の衰退などは愚にも付かぬ話なわけです。
堀内 そうなると「じゃあ、どうすればいいんですか?」という声が返ってきます。でも、「皆さんがどうすれば良いか」を本当に「私たち」が決めても良いのでしょうか? 先ほどストア派の美学を例にした「精神的勝利法」の話が出ましたが、私自身は美学的な観点が強い批判理論に依拠しています。これは『阿Q正伝』的な「精神的勝利法」とは似て非なるものです。鈴木弘輝さんと、宮台さんの三人で『幸福論』を書いた時に、私の政治学の師匠にあたるある先生から「とてもよくできていますが、振る舞いとして美しくない」「論壇に出てくる若手論客にありがちな『俺はこんなにできるぞ』と見せようとしていて、君らしくありません」とたしなめられました。これは正直、大変堪えました。
比喩的にしか言えませんが、「美しく生きる」ということと「美しい生き方」ということには、とても大きな違いがあると私は思っています。「美しく生きる」とは、こう言ってよければ、「私の強い意志」によるものであって、決意の問題です。ところが「美しい生き方」とは、「美しくない生き方」が対比されるような社会的な関係性です。今日のような消費社会では「おいしい生活」と少しも変わらない。「若手論客」には、私を含めミッシェル・フーコーを奉じている人がとても多いようですが、彼らの多くは「美しい生き方」という美学を広い意味での「公共性」や「政治」に投影しようとしているように思えてなりません。私から見ると「若手論客」の方々の主張と晩年のフーコーが言った「生存の美学」は、やはり似て非なるものだという気がします。「若手論客」は、自分たちに美しい生活をさせてくれる居場所はどこにあるのか、という議論や振る舞いから抜けきれていないように思えてなりません。この近代社会の中での自分の位置をマッピングすることには懸命であっても、自分の中にある近代社会が何であるのかを位置づけ、対峙するという姿勢は脆弱だといってもいいでしょう。「自分の生き方を美しくしたい」「周りに流されて思うようにならないのはいやだ」。フーコーに共鳴し、本当にそう思うのであれば「美しく生きる」という決意、つまり自分の生き方に対してどう向き合うか、という話になってもよいのに、なぜかいまだに「承認」や「美しい生き方」の可能な「立ち位置」を求めているように見えます。自戒をこめて言えば、新しい媒体を出すということは決意の表明であると同時に、他人に認められたいという欲求が皆無とはいえないのではないでしょうか。
以下は、『論座 7月号』に載った宮台真司先生との対談からの抜粋です。私の発言箇所のみUPします。
堀内 宮台さんはシステム理論がご専門です。私は批判理論が研究のベースにあります。もともと、この二つの学説は対立していると思われていましたが、今では、相互に相手の良いところを取り込みながら、あるていどベースを共有していると言えます。ですから、宮台さんと私の関係は、一方が受け手で他方が応答者というわけではなく、片方が何かを擁護し、もう一方が批判するという関係でもありません。ボケと突っ込みが状況に応じて入れ替わるような対談になると思います(笑い)。少し補足すると、フランクフルト学派の批判理論はナチズムの「悲劇」を国家権力の横暴のせいにせず、理性的啓蒙の伝統に帰する点で、いわばヴェーバーの合理論をラディカルにした哲学版だといえます。「精神分析」と「マルクス主義」の影響を受けつつ、ヴェーバーの意味と自由の喪失をラディカルに問う、そうした学派です。もっとも、第二世代のハーバーマスは、理性が反転して災厄となる歴史を運命的なものとせずに、歪められたコミュニケーションの歴史として理解するわけですが。
堀内 本題に入る前に、いわゆる「論壇」についてちょっと確認しておきたいと思います。この対談自体も「論壇」誌と呼ばれる雑誌に掲載されます。すこし前になりますが、1月19日付朝日新聞に「30代の若手論客が政治化している」という趣旨の記事がでました。私も30代ですが、同年代の「若手論客」、やや年上の35、6歳の人たちが論壇の中心を担っている。何をもって「政治化している」といわれるのかは私には分かりませんが、いわゆる新しい「論壇誌」が次々発刊されているのは事実です。こうした論壇を担おうとしている生真面目な方々は、以前であればハーバーマスがサロンとか公共空間と呼んだようなもの、つまりある種の討議場を目指しているのかもしれません。例えば「αシノドス」というメールマガジンを立ち上げた荻上チキさんたちがいます。若手研究者が自活して発言していくことは大変難しい状況なので、できるだけ機会を提供しようという試み自体には共感します。実際、私も研究者仲間と「現代位相研究所」を立ち上げました。社会的にどんな意味があるかはともかく、切磋琢磨できる環境をつくるということは重要なことです。
堀内 同じことを年下である私が言うと、今度は「お前は恵まれているからだ」という批判が返ってきます。あるいはその通りで、恵まれているのかもしれません。どういう意味で「恵まれている」かというのは相対的な問題で、持っていない人から見れば持っている人はうらやましく思えるに決まっているからです。でも、私と同世代の「若手論客」の中には私や宮台さんの疑問も折り込み済みで、それでもなおかつ本当に恵まれない、不幸な人たちを何とかしようと真剣に考えている方が大勢いることは間違いない。ただ、そのことを踏まえたとしても、彼らのまっとうな心情から提出されてくる議論の、あまりの現実味のなさに驚くことが多々あります。例えば、基本的な所得を国家が再分配しろというベーシックインカムの議論がありますよね。
堀内 『VOL』(以文社)という雑誌では、ベーシックインカムの可能性がさかんに論じられています。その一方「福祉国家をもう一度」という議論も相変わらずあります。
堀内 「福祉国家」が何を意味するかは多義的ですが、すくなくともかつて「福祉国家」の主張が可能だった時代と現在の世界経済の状況は全く違います。グローバリズムを踏まえた上で「ベーシックインカム」が可能だと論証できるのであれば別ですが、どうも説得力がない。「格差が広がっている」。そうかもしれません。「その手当てをしなくてはならない」。その通り。しかし、そうであれば、格差をなくすために国際資本をどれだけ競争的に獲得するか、という話も「ベーシックインカム」と同じように考えられてもよいはずです。政治学者や経済学者であればそう考えるでしょう。国際的な格差が縮まれば国内的な格差はひろがり、国内的な格差を縮めようとすれば国際的な格差は必然的にひろがります。ヨアヒム・ヒルシュのように左翼でもレギュラシオンのフランクフルト派に属している人々の中には、国際資本を誘致することは様々な社会政策を可能にするための、いまや不可避な課題となったと指摘する人もいます。国際資本を獲得するためには国民を総動員する「権威主義的な国家」である他ないと。皮肉なことにヒルシュは「左翼」であるにもかかわらず、左翼のきまじめな反国家的・反制度志向が、却ってこのような事態を招いているという議論に踏み込んでいます。もちろん、彼は左翼の試みがすべて悪いと言っているわけではありません。ですが、国内格差を縮めるためには国際資本を誘致するより他に方法がないかもしれない時に、市民社会の潜在力に期待したり、民営化をその成果と見做すような左翼の稚拙さには厳しい批判を呈します。ヒルシュは、「世界国家」の樹立でも、資本主義に代わる地球まるごと包み込むようなシステム革命でもなんでも、やれるもんならやって打ち立ててごらんなさい、という挑発的な言い方さえしています。彼にとって社会の自律や、国家の衰退などは愚にも付かぬ話なわけです。
堀内 そうなると「じゃあ、どうすればいいんですか?」という声が返ってきます。でも、「皆さんがどうすれば良いか」を本当に「私たち」が決めても良いのでしょうか? 先ほどストア派の美学を例にした「精神的勝利法」の話が出ましたが、私自身は美学的な観点が強い批判理論に依拠しています。これは『阿Q正伝』的な「精神的勝利法」とは似て非なるものです。鈴木弘輝さんと、宮台さんの三人で『幸福論』を書いた時に、私の政治学の師匠にあたるある先生から「とてもよくできていますが、振る舞いとして美しくない」「論壇に出てくる若手論客にありがちな『俺はこんなにできるぞ』と見せようとしていて、君らしくありません」とたしなめられました。これは正直、大変堪えました。
比喩的にしか言えませんが、「美しく生きる」ということと「美しい生き方」ということには、とても大きな違いがあると私は思っています。「美しく生きる」とは、こう言ってよければ、「私の強い意志」によるものであって、決意の問題です。ところが「美しい生き方」とは、「美しくない生き方」が対比されるような社会的な関係性です。今日のような消費社会では「おいしい生活」と少しも変わらない。「若手論客」には、私を含めミッシェル・フーコーを奉じている人がとても多いようですが、彼らの多くは「美しい生き方」という美学を広い意味での「公共性」や「政治」に投影しようとしているように思えてなりません。私から見ると「若手論客」の方々の主張と晩年のフーコーが言った「生存の美学」は、やはり似て非なるものだという気がします。「若手論客」は、自分たちに美しい生活をさせてくれる居場所はどこにあるのか、という議論や振る舞いから抜けきれていないように思えてなりません。この近代社会の中での自分の位置をマッピングすることには懸命であっても、自分の中にある近代社会が何であるのかを位置づけ、対峙するという姿勢は脆弱だといってもいいでしょう。「自分の生き方を美しくしたい」「周りに流されて思うようにならないのはいやだ」。フーコーに共鳴し、本当にそう思うのであれば「美しく生きる」という決意、つまり自分の生き方に対してどう向き合うか、という話になってもよいのに、なぜかいまだに「承認」や「美しい生き方」の可能な「立ち位置」を求めているように見えます。自戒をこめて言えば、新しい媒体を出すということは決意の表明であると同時に、他人に認められたいという欲求が皆無とはいえないのではないでしょうか。


![論座 2008年 07月号 [雑誌]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51Kq46m0NZL._SL160_.jpg)









