ハーバーマス精読講座のお知らせ

「ハーバーマスを読む ―カント論を中心に― 」

 この講座では、「差異に敏感な普遍主義」を掲げるユルゲン・ハーバーマスのいくつかの議論を、カント論に焦点を当てながら紹介する。具体的には、2003年(原著は1996年)に上梓された『他者の受容』に収められている国民国家の未来や人権、そして民主制についての議論を取り上げる。もとより限られた時間では、ハーバーマスの長年の研究活動のすべてを解説することはできないが、この著作のテーマである「他者を受容し、差異とともに生きる論理はいかにして可能か」という問いは、ハーバーマスにとっての根本問題であるので、それについて学ぶことは、ハーバーマスの諸議論の輪郭を大きくつかみ出すことにもつながろう。それゆえ、この講座では、細部に拘泥することなく、大胆に読み飛ばしながら、まずはぼんやりとでも良いので輪郭線を見つけて頂けるように各回を進めていくことにしたい。 初回は、テクスト解説に先立ち、「差異に敏感な普遍主義」を理解する導きの糸として、ハーバーマスが踏まえている諸前提について若干の解説をする。また、各回毎にレジュメを配布する予定である(堀内・記)。
  • 担当者: 堀内進之介
  • 場所: 朝日カルチャーセンター 新宿教室
  • 期間・曜日・時間: 10/16、10/23、11/27、12/25 (木:19:00〜20:30 全4回)
  • 参考書:『他者の受容』・『ブリッジブック社会学』
  • 必要箇所はコピー教材として実費で配布。ご購入はご自由です。
  • 申し込みはこちら!

シリーズ講座のお知らせ

「シリーズ:社会(科)学のラディカリズム」                                                                   ●テーマ: グローバル化の不可避性− ロールズとウォーラーステイン                                ●担当者: 宮台真司・ 堀内進之介                                                                                  ●期間・曜日・時間: 7/26→8/2に変更, 8/23, 9/27 (土:19:00〜20:30)                                                                                ●場所: 朝日カルチャーセンター 新宿教室                                                              ● 申し込みはこちら!  

冷静と情熱のあいだ

そういえばそんな名前の小説があった、とふと懐かしく思い出した。ベタな話だが、研究を続けるには情熱が必要で、一方で冷静に距離をとることも求められるだろう。

修士課程のとき、ゼミで指導教官に、「大学院になんて来る奴は、たいてい強迫的な思い込みを持っている。それを勉強することで解除していって、それでも研究したいと思う奴が博士にくるんだ」というようなことを言われたのを覚えている。
これは正確には、博士課程に入ろうとする人間の属性というよりも、博士課程に入る人間の条件になるわけだが、なるほどと心底思った。そしてたまに思い出して自らに問いなおす。

修士まではとにかくがむしゃらに駆け抜けることはできるだろうが、博士に入れば、当たり前だがそれだけで行くわけにはいかなくなる。情熱を失わず、距離をとり、冷静に堅実に研究を続けていく必要があるわけだが、冷静に考え距離をとり、いろいろなことを勘案すればするほどに、妙な脱力感や徒労感に襲われて道を見失いそうになる。しかし、参ったことに、博士に入ってしまうと年齢的にも様々な選択肢が閉ざされていく。恐ろしい話。

ウェーバーは『職業としての政治』で、「それでもなお」と世界に立ち向かえることを政治家の資質として求めた。それに比べればささやかな営みかもしれないが、情熱を維持しつつ冷静さを失わず、それでもなお、と呟きつつ研究を続けることの重要性は痛感する。思うに任せないことは多く、日々の雑事に追われることも多い。情熱を失って辞めていった人たちもいれば、情熱を諦めて辞めざるを得なかった人たちもいる。それでもなお、研究をしようとしている私が引き受けるものは何か、と思う。

「彼(引用者注:ウェーバー)の『強さ』は、あのミケランジェロの『最後の審判』に描かれた永劫の罰を受けた男と同様に、現代という時代を正面から見えすえた点にある。それゆえ、『職業としての学問』がウェーバー自身にとって意味したことは、時代の証言者たれ、ということである。非の打ちどころのない学問的考察をしたからといって、脅威を払いのけることはできない。が、そのことによって脅威に耐えることはできる。いや、証言者になることは、さらにそれ以上のことを意味する。証言するものは『憧れること』をやめないのだ。しかもその『憧れ』こそ、ニーチェによれば、人間を人間たらしめるものなのである」
ポイカート『ウェーバー 近代の診断』p79

夏バテで気力が萎えそうになったり、寒さで気分が塞ぎこむようなときには、たまにこの言葉を思い出して自らを省み、研究の軌跡を意義づけ、進むべき方向を考える。明るい気持ちになるわけではないが、自然と背筋が伸びる。

幸いにして、今年の夏は忙しく、物思いにふける暇もないが。

自己の活用  

研究員 大河原麻衣

以下は、第56回関東社会学会での報告の抜粋です。


 本報告では、理性的自己同一性を希求する態度が尚も福祉国家体制時の「公正」理念に与していること―つまり受動的であること―を指摘しつつ、福祉国家体制崩壊後に顕著になった社会の再帰性を踏まえて、それは自己自身に対する自己との関係として「誠実さ」の地平において希求されるべきものであることを論じる。要するに、ここでは、選択の自由が主体性の復権というイメージをもたらしており、心理学的なテクノロジーが、アジェンダ・セッティングパワーを免責する役割を果たしながら、選択肢自体の創造の可能性を侵食していることが指摘される。本報告の隠れた狙いは、こうした指摘を通じて、意味のある政治的目標とは、既存の政治が何をしてくれるかと問うことではなく、既存の政治を試練にかけることにある、ということを示唆することである。
 主観的世界や生活史の地平に立脚する本報告は、言うなれば、ひとつの美学、ひとつの哲学、ひとつの思想、ひとつの価値自由であり、多くの部分で「よき生」についてのポスト形而上学的な、そして社会学的な問題設定を越え出ている。というのも、本報告における「誠実さ」という心的行為態度に関わる問題提起は、社会学においては、倫理学に属す「個人的」で「私的」な課題に過ぎないものとされるか、「教育」や「社会化」の範疇で、規範の内面化として間接的にのみ扱われてきたからである。しかしながら、受動的信頼を能動的信頼へと転換する諸実践を支える〈動機〉が、真理や公正といった普遍妥当的とされた理念によっては必ずしも供給されなくなった現在ではむしろ、こうした問題設定は、社会的諸実践にとって最も重要なもののひとつである。「動機づけ」は社会科学における根本問題であり、今や直接的な課題となったと言っても過言ではない。それゆえにこそ、個人をより広範な社会関係へと開くための手立てを構想するということのうちには、各人の能動性を高めるということのみならず、そのような各人の能動性を引き出す社会的な条件を、当事者のパースペクティヴから問い直すという契機も含まれるべきなのである。
 
 このように位置づけられる本報告の主題は、克己(エンクラテイア)するという営み、そのような自己の統治のあり方を提起することである。この営みは、高度に複雑で再帰的な現代社会においては、かりそめにも行政的処置としての「教育」に委ねることはできない。とはいえ、「社会化」を伝統に委ねておくことももはや可能ではない。ギデンズが言うように、善かれ悪しかれ、伝統もまた私たちの選択肢のひとつに過ぎないものになっているからである。
 しかるに、私は克己をモノローギッシュなものとは考えていない。克己する営みの本質は、未来を志向するために過去を想起するという時間構造にあるからである。もっとも、「競合するそれぞれの自己同一性にかかわる知識―つまり、批判的に伝統を想起し、科学、哲学、芸術によって刺激を受け、討議的にかつ実験的に―を育てるような共同体」の創造という理想は諦められるべきではない。しかし現実としてこうした共同体が存在しない今、私は克己する営みをむしろ「実験的態度」として擁護してみたい。ここにいう「実験的態度」とは、プラグマティズムに見出される「条件プログラム」とも異なるものである。状況に依存するというよりは、状況をいかに解釈するかという心的行為態度に重点を置くものだからである。
 社会学において、自己や主体が歴史的・社会的な産物であることを認めない立場はほぼ存在しない。なかでも社会構築主義を掲げる議論の多くは、自己や主体は、何にせよ最終目的に役立つ手段として扱われるものであって、それ自体では価値がないと主張している。今では「脱構築」は社会構築主義のメルクマールとなっている。この主張を全面的に認めるならば、私たちは他者からの認知と自尊心との間で進退に窮することになるだろう。というのも、原理的には、この種の主張においては、他者に受け入れられることに甘んじるのは、現在の自分自身を受け入れることでもあるからである。にもかかわらず、自己や主体の社会的な構築性を問題視する諸議論は、他者との感応性において「人間はみずからつくるところのもの以外の何ものでもない」というサルトル的な実存主義と親和的であるか、さもなければ、社会的な構築性を強固で摩擦係数の高いものと見積るあまりに、もはや社会的な構築性を問題視する視座を、いかなる意味においても規範的な文脈の下に正統化することができないでいる。要するに、前者は、<実存>が有する政治性(≒構築的権力)への自覚に乏しく、後者は、<本質>が有する政治性への自覚の故に、戦略的本質主義を退けることも、かといって支持することもできないでいる。

 それゆえ、もはや社会構築主義の立場に拘泥することは不毛である。この立場はこれまで、何らかの本質が措定されることで生じた抑圧から人々を解放する役目を担ってきた。確かに、本質的であると思われていたものの恣意性を指摘する議論が意義をもった時代はあった。すなわち、真理と政治が交差する地点に〈本質〉が措定され、〈本質〉の回復を図るものとされた政治的行為に対して、政治的行為に正統性を付与する〈本質〉の措定こそ暴力的であると指摘する意義はあった。しかしながら、自明性の喪失自体が自明になった現在、構築主義的な立場はもはやその役目を終えている。今問題とされるべきはむしろ、美学と政治が交差する地点に〈実存〉が浮上するこの時代の、そのあり様に他ならない。
 「最終目的に役立つ手段として扱われる自己や主体」を、支配(=権力批判)という視座からではなく、「権力がどう機能するかは、権力に対して応答する自己との関係がどのようであるはずか」という視座から見出すならば、「最終目的に役立つ手段として扱われる自己や主体」は、構築的権力や<本質>への居直りとしてではなく、むしろ権力の肯定的な次元において、すなわち自己の統治という観点から再び見出すことが可能となるはずである。言い換えれば、私たちは既に恣意性の指摘から、次の一歩をどのように踏み出すべきなのか、あるいは次の一歩とは何か、という問題に立ち向かわなければならない地点にある。

 

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ますます明示化する社会

研究員 大河原麻衣

現代社会を論ずる書物を読んでいると、私たちはまるで根無し草になった気分になる。
伝統は当たり前のものではなくなり、私たちは流動化し大量の情報とともに加速度的に勢いをつけて変化していく社会の中に放り出されている、というイメージが現代社会のイメージの定番となって久しい。
液状化した社会の中で、自明性が失われ、かつて当たり前だった社会とは何かがわからなくなる――人々は自らの位置づけを失い、個人化し、ますます社会は一体性を失う――しかし、本当に?

現代社会では、何もかも自明ではないということだけは自明である。しかし、この社会は本当に見通しが利かないのだろうか。幸か不幸か、伝統社会の中に埋め込まれていた状態から放り出された私たちは、埋め込まれていた時よりもはるかに社会を対象化することが、見通すことができるはずである。再帰的近代といわれる現代社会を、なぜ私たちは「不透明」と感じるのか。埋め込まれていた時には見えなかった社会、考えないで済んだ自分たちの足場としての社会が、全体として失われつつあるということに起因するというよりは、実質的には全く「ひとつ」ではなかったということが、誰にとってもますますよく「見えるようになった」ということなのではないだろうか。

社会学者宮台真司は、かつて現代社会のひとつの趨勢を島宇宙化という言葉で議論した。そして今、私たちには、現代社会をいくつもの社会として経験するまでになっている。実際、現代の青少年をめぐっては、しばしば、小さなコミュニティを大切にし渡り歩く若者の姿が議論されている。
誰もが前提とする一枚岩の社会は失われたが、かわりに複数の社会はその社会毎に一体性をもった固有の世界として「ある」、ということもできるように思われる。社会は、自明でなくなったことが自明となるほどまでにますます明示的になったということもできるだろう。

いまや、これまで思考の前提であって考える事なく済んだ社会を、私たちは選びとらなくてはならない。しかも単純に選び取る前に、私たちは選択の指針もまた知らなくてはならないことに気づいてしまったりする。どの目的のために、何の関心に従うべきなのか――ということを、社会からの要請に即して決定するにしても、主体性の証明として社会的要請からズレるために自問するにしても、いずれにせよ、私たちはどのような社会で生み出されてきたのかを見定めなければならない。自分の中に自分を生み出した社会の痕跡を見い出さなければならないのである。これこそが「自分探し」が必要とされた始まりであったように思える。それがいつしか、自分の中に社会の痕跡ではなく何がしかの自己の「本質」を見い出そうとすることに横滑りしたことが、自分探しの負のスパイラルの始まりである。

社会における自分の目的/主体的関心はその社会を知ることで産み出しえるのだとすれば、どの道社会を選びとらざるを得ない現在、自分の目的や主体的関心は、自分たちを産み出した社会を知り、さらにその上で選びとった社会を知ることで初めて成り立つことになる。アンソニー・ギデンズが自己を再帰的達成課題として論じたのは、こうした事態の謂いであると考えられる。

社会の明示化で引き起こされるのは、このような自己の対象化だけではない。親密性の変容とギデンズが述べたように、感情の民主化という形で関係性も対象化されつつある。対象化の進展は、いかに選択するかという政治化の進展も引き起こす。そして社会が選択可能な多数の個別具体的な現実として現れれば現れるほど、普遍的な正義や社会的連帯の理念は、否応なしに人々の経験的な地平から追い出される。このような現実の複数性は理念を後退させるが、他方では、それゆえにこの後退した理念をいかに正統化するか、あるいは正当な理念とは何かという重要な問いを提起する、再帰的な契機ともなっているのである。

ますます明示化する社会――現代社会において、私たちを根無し草にしているのが単なる自明性の喪失ではなく明示化ゆえだとすれば、それはますます対象化し、政治化する社会であるといえるだろう。

次回3/10は、稲葉年計です。

主体的な関心

研究員 大河原麻衣

研究者であれば、もしくは研究を志そうとしたことのある人間であれば、少なからず「主体的な関心は何か」という問いに直面したことがあるのではないだろうか。何のために研究するのか、研究者として何に関心を持っているのか、問われたことのない研究者はいないのではないのだろうか。明確に言語化されていない場合でも、なんらかの関心がなければわざわざ研究をしようと思う者もいるまい。これを明確に言語化していくことが、研究者として欠かせないプロセスなのであろうと思う。しかし、今私が直面しているのは「主体的な関心はいかにして可能か」という問いである。

その研究の分野が社会学であれば、その関心がまるで社会に向かっていない/なんらかのかたちで社会に向かっていない研究者はいないだろう。では、その社会とは一体何なのか。社会の自明性が失われたといわれて久しい現代社会を生きる私たちは、関心を向けるべき社会をイメージできているのか。どのような社会を是として、どのような社会を非とするのか。


私は今、研究の核となるべき主体的な関心は社会の自明性を前提としているのではないか、と考えている。社会の自明性に頼ることができた時代、曖昧であろうとも「社会とはこのようなものである」とイメージでき、何が社会の問題なのかを今より想像し得たのではないだろうか。社会に対する不全感や不満を想像し、それをもとに主体的な関心を定めることが可能であったのではないだろうか。そのような主体的関心をもとに研究し、社会を改善しようという動機を獲得できたのではないだろうか主体的な関心を問うということは、主体的な関心が何を可能とするのかということと結びついている。社会の自明性が失われた今、私たちが問いうるのは、主体的な関心はいかにして可能か、となるように思う。


予期される一体性のある社会のイメージがないから、主体的な関心は事後的に生成されるしかなく、研究を通して主体的な関心が反照されるにしても、そのための足がかりが乏しいから自分探し的になってしまう。そうでなければ社会を自分の身近な範囲に切り縮めることで、主体的関心を成立させていくことになる。

私から見れば、すでに社会の一体性があった時代の方が特殊に思える。現在、今更ながらに歴史の本を紐解き、戦前や戦後をリードしてきた社会科学者たちの本を読み進めている。彼らがどのような社会の一体性を予期していたのか。今更ながらにこれを問い尋ねることで、今を知る足掛かりとしたいと切に思っている。

次回更新は2/3、鈴木弘輝です。

ニコラス・ローズの問題圏

研究員 大河原麻衣

前回の関東社会学会で行った報告では、個人化の進展を心理学主義化と心理学化の区別によって論じたが、来る11月の日本社会学会では、個人化の進展をニコラス・ローズの問題圏として論じる予定である。
個人化を構成する2つの相貌、それを私はポジティヴなものとしての主体化とネガティヴなものとしての私事化と呼んだが、アルベルト・メルッチは個人化のこのような2つの性質を、個人化のポテンシャルと呼んだ。個人化は、選択を多様化し個人のポテンシャルをあげる一方で、そのような個人が社会によって重要な資源として利用されるようにする。メルッチの説明はこの2側面が同時に存在することを示す点で優れているが、日本においては時間軸を導入して説明する方が適しているように思われる。

つまり、個人の能動性の展開という主体化から、いかなる選択であれそれによって生じた問題が個人に還元されるという私事化に力点が置かれるようになる。これと同時に、社会的な次元に属するはずの課題を、個人の選択の問題として個人に帰属させる「帰属処理」の段階/側面と、帰属処理された課題の解決自体をも全面的に個人的な次元に帰責する「帰責処理」の段階/側面とが生じてくる、という時間軸である。そしてこの帰属処理の段階において「主体化の実践」が社会的な要請として与えられる事態=心理主義化が生じ、人々はより一層社会に向かって駆り立てられ、それによって生じた弊が個人的な問題として処理されていく事態=心理学化が生じてくる(第55回関東社会学会報告(大河原))。

現代的な統治のあり方を後期フーコーに依拠して論じるニコラス・ローズは、Governing the Soulにおいて「psy」という接頭辞がつく学問領域や専門知が、「統治可能な主体」の構成において重要な役割を果たしていることを論じている(Rose,1999)。psychology、psychiatry、psychoanalysisなどである。これらの「人間工学的技術(ヒューマン・テクノロジー)」による規制は主体性を作り上げ、人間を理解する新しい方法となった。ローズの語る「psy」の興隆は、心理主義化や心理学化という側面の双方を孕んでいる――「19世紀中頃以降広く考案されたこのような知や専門的知識(引用者注:「psy」のこと)は特に重要である。なぜなら、これらは人間の自己理解の手段や、自らを主体(あるいは客体、そして真理/知の標的)へと作り上げる手段というものの具体例なのだから。またそれらは、私たちが自らについて考え、そして自らの行動を決めるその方法に対しても構成的な役割を演じてきた。言い換えれば、異質的な知や権威の形成そして心理学的専門知を構成する実践的技術といった諸々の『psy』が、人が自らについて考え、自らについて語り、自らを判断し新しいやり方で自らを指揮することを可能にしているのだ、と私は考えているのだ」(Rose,1999:vii)。ローズによれば私たちは「心理学的な意味で『自由であると義務づけられ』ている」。ローズにとって、個人化とは「psy」のインストールなのである。

ローズの問題圏において、「psy」をインストールされ、自由であることを義務付けられている私たちは、存在の倫理化と呼ばれる状況に置かれている。「『存在の倫理化』は、健康や福祉、保障、および相互のケアに対する責任を「国家」へ譲渡するのではなく、自己実現の名の下で為された行動とその帰結について市民自らが責任を負うのだという要求を強化する」。これらの倫理の作動範囲は、セラピーの場所といったいかにもな場だけでなく、生活のすべてに及んでいる。牧人権力のようにはすでに牧人は存在せず、「羊」たちが相互に自分たちの魂を気遣うようになる――報告では、さらにこの問題を具体的な医療をめぐるコードの変遷において考察する予定である。


更新が遅れてしまったことをお詫びします。
次回更新は山本祥弘です。
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