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<title>現代位相研究所</title>
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<description>現代位相研究所の公式ブログです。　　</description>
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<title>「日本の近代化再考―政治の近代化―」受付開始</title>
<description> 朝日カルチャーセンター講座「日本の近代化再考―政治の近代化―」の受講申し込みが開始されました。初回（10月3日（土）15：30～17：00）は、宮台真司氏をゲスト講師にお迎えします。お申し込みはこちら学生会員のお申し込みはこちら皆様のご参加をお待ちしております。
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<![CDATA[ 朝日カルチャーセンター講座「日本の近代化再考―政治の近代化―」の受講申し込みが開始されました。<br /><br /><br />初回（10月3日（土）15：30～17：00）は、宮台真司氏をゲスト講師にお迎えします。<br /><br /><br /><a href="http://www.asahiculture-shinjuku.com/LES/detail.asp?CNO=49987&amp;userflg=0" target="_blank" title="お申し込みはこちら">お申し込みはこちら</a><br /><a href="http://www.asahiculture-shinjuku.com/LES/detail.asp?CNO=49988&amp;userflg=0" target="_blank" title="学生会員のお申し込みはこちら">学生会員のお申し込みはこちら</a><br /><br /><br />皆様のご参加をお待ちしております。<br /> ]]>
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<dc:subject>研究員　山本祥弘</dc:subject>
<dc:date>2009-08-22T13:01:07+09:00</dc:date>
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<title>シリーズ講座「日本の近代化再考」＠朝日カルチャーセンター新宿が間もなく開講します。</title>
<description> 戦前の日本における社会科学的思考が世界的にも高い水準を誇るものであり、今日においてもなおアクチュアルな問題がすでに論じられていたことを、皆さんはご存知でしょうか？戦後の思想が先の大戦の反省に基づくなら、戦前の思想は、西洋文明に対峙しつつ日本をいかに近代化するべきかという、きわめて実践的・政治的な問題関心を含んでおり、近年のグローバリゼーションの議論における論点の多くを先取りしていたといえるでしょう
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<![CDATA[ 戦前の日本における社会科学的思考が世界的にも高い水準を誇るものであり、今日においてもなおアクチュアルな問題がすでに論じられていたことを、皆さんはご存知でしょうか？<br /><br />戦後の思想が先の大戦の反省に基づくなら、戦前の思想は、西洋文明に対峙しつつ日本をいかに近代化するべきかという、きわめて実践的・政治的な問題関心を含んでおり、近年のグローバリゼーションの議論における論点の多くを先取りしていたといえるでしょう。<br /><br />しかし、残念なことに、戦前の思想を体系的に学ぶチャンスは現在では非常に希少になってしまいました。<br /><br />そこで、このシリーズ講座「日本の近代化再考」では、戦前期日本の社会科学的営為とその歴史的背景を分かりやすく解説し、今日との連続と断絶について皆さんと考えていきたいと思います。社会、政治、経済という三つの側面から体系的に理解するために、シリーズを通しての受講をお勧めします。<br /><br />シリーズは、第Ⅰ～第Ⅲタームで構成され、各タームの初回はゲスト講師をお迎えしての対談です。<br />第Ⅰターム初回のゲスト講師は玉野和志氏、第Ⅱ・Ⅲターム初回のゲスト講師は宮台真司氏です。<br /><br /><br /><u>現在、第Ⅰタームの受講を受付中です。</u><br /><br />場所：　朝日カルチャーセンター　新宿教室 <br />期間・曜日・時間： 7/4, 8/8, 9/5 （土：15:30～17:00） <br /><a href="http://www.asahiculture-shinjuku.com/LES/detail.asp?CNO=44398&amp;userflg=0" target="_blank" title="&lt;span style=&quot;color:#ff0000&quot;&gt;申し込みはこちら！&lt;/span&gt;"><span style="color:#ff0000">申し込みはこちら！</span></a><br /><a href="http://www.asahiculture-shinjuku.com/LES/detail.asp?CNO=44399&amp;userflg=0" target="_blank" title="&lt;span style=&quot;color:#ff0000&quot;&gt;ACC学生会員申し込みはこちら！&lt;/span&gt;"><span style="color:#ff0000">ACC学生会員申し込みはこちら！</span></a><br /><br /><br />◆シリーズ構成◆<br /><br />第Ⅰターム「社会の近代化―社会構造の変動―」<br />（家族や社会階層のあり方を、村落社会における支配構造のラディカルな変動から解説。　講師：大河原麻衣）<br /><br />　　第一回目　7月4日　対談：　玉野和志（首都大学東京教授）<br />　　第二回目　8月8日<br />　　第三回目　9月5日<br /><br />第Ⅱターム「政治の近代化―国権と民権の相克―」<br />（統治構造の近代化を、警察・衛生などの内務行政、および民衆・部落の歴史から解説。　講師：山本祥弘）<br /><br />　　第一回目　10月3日　　対談：　宮台真司<br />　　第二回目　11月7日　<br />　　第三回目　12月5日<br /><br />第三ターム「経済の近代化―日本資本主義とは何か―」<br />（日本資本主義論争とその歴史的背景を見ることで、戦前の日本近代化論とそのアクチュアリティを解説。　講師：渡邉悠介）<br /><br />　　第一回目　1月　　対談：　宮台真司<br />　　第二回目　2月　<br />　　第三回目　3月　<br /><br /><br />皆様のご参加をお待ちしております。<br /> ]]>
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<dc:subject>講義・講演のお知らせ</dc:subject>
<dc:date>2009-06-27T00:26:35+09:00</dc:date>
<dc:creator>modernphase</dc:creator>
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<title>「ナイフを持つまえにダザイを読め！！」について</title>
<description> 所長　鈴木弘輝　次の仕事までに時間があったので、仕事場の近くの書店に立ち寄ったら、「ナイフを持つまえにダザイを読め！！」と表紙に書いてある文庫本が店頭の棚に飾ってあった。　この本自体は「太宰治の紹介本」として５年ほど前に出版されていたみたいだが、爆笑問題の太田光が太宰治本をつい最近出したので、その関連図書として改めて書店が目立つところに並べたのだろう。しかも、「ナイフによる殺人」の続報が連日マスコ
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<![CDATA[ 所長　鈴木弘輝<br /><br />　次の仕事までに時間があったので、仕事場の近くの書店に立ち寄ったら、「ナイフを持つまえにダザイを読め！！」と表紙に書いてある文庫本が店頭の棚に飾ってあった。<br />　この本自体は「太宰治の紹介本」として５年ほど前に出版されていたみたいだが、爆笑問題の太田光が太宰治本をつい最近出したので、その関連図書として改めて書店が目立つところに並べたのだろう。しかも、「ナイフによる殺人」の続報が連日マスコミで取り上げられているので、それとの関連もねらったのかもしれない。<br />　僕は書店にはひまつぶしで行く方なので、以前にもこの本の表紙を見た記憶があるのだが、その時にはほとんど気にもすることはなかった。しかし、今回改めてこれを見た時には、何か違和感を覚えたのである。<br /><br />　その違和感の一つめは、「太宰治の小説に何かの『抑止効果』を求められるのか？」というものである。「ナイフを持つまえにダザイを読め！！」という言い回しには、やはり「太宰治を読めばナイフを持たずに済む」という何らかの効用への期待が含意されていると考えてよいだろう。しかし、本当に太宰の小説を読んだら、人はナイフを持たずに済むのだろうか。もしかしたら、それらを読了することによって、「自分はやはりナイフを持とう」と深く決心するかもしれないではないか。<br />　そして、違和感の二つめは、「ナイフを持たないようになればよいというものなのか？」というものである。これは僕の個人的な見解であるが、太宰治というのは「自分の弱さ」を深く自覚した上でそれを上手に利用した人のように思える。だから、彼の読者が「自分の弱さ」を振り回すようになった場合、そのことによって今度は他の人の心が傷つくのではないか。そして、人の心を傷つけて平気でいるというのは、ナイフを振り回して人の体を傷つけるのに負けずとも劣らない行為なのではないか。<br />　もちろん、他人を殺傷することは犯罪であり、到底許されるものではない。しかし、当然ながら、人はナイフを持たなければ何をやってもよいのではない。「ナイフを持たない人になってほしい」と願うばかりに、それとは質が違うものでありながら、それでも本来ならば看過できないような行為が、今ではずいぶん多めに見られているのではないだろうか。<br /><br />　これは大げさな言い方なのかもしれないが、「ナイフを持つまえに太宰を読め！！」という言い回しは、そのような人間社会の様々な側面をむしろ覆い隠すようになっているような気がする。「～をすれば…になる」というようなつながりなど、それほど簡単に成立するはずがないと思われてならないのだが、いかがだろうか。<br />　最後に、最近読んだ本の中で、僕が大いに納得した文章を引用することとする。<br /><br />　そもそも、人の性格や生き方は、そんなに簡単に変化するものではない。人は焼かれなければ直らない、つまり人は死んで火葬に付されない限りは変わることがむつかしいという言いぐさは、ことの本質を十分に伝えているといわねばならないであろう。私がいいたいことは、およそ宗教は人格を転換するために存在しているのではない、ということなのだ。人格者になるために宗教を求めるのでもないし、人格者を養成するために宗教があるわけでもない。宗教を信じていなくとも、立派な人は多数存在するし、宗教を信じていても人格円満とはいいたがい人も少なくない。<br />―阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』ちくま新書<br /> ]]>
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<dc:subject>著作のご案内</dc:subject>
<dc:date>2009-05-25T01:06:21+09:00</dc:date>
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<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
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<title>現代日本の社会学者にとって社会学とは何か</title>
<description> 研究員　渡邉悠介「広義の社会は、人間にとって所与である自然に対して、人間がその意志的な活動をつうじてつくりだしたものの総称である。経済、政治、法、宗教、教育、言語、道徳などが、……「狭義の社会」たる家族、学校、企業、官庁、村落、都市、国家、国民社会、群衆・市場・社会階層・民族などとあわせて、この広義の社会を構成する諸要素である。広義の社会は学問分野を自然科学と社会科学に分かつさいの社会であるから、社
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<![CDATA[ 研究員　渡邉悠介<br /><br />「広義の社会は、人間にとって所与である自然に対して、人間がその意志的な活動をつうじてつくりだしたものの総称である。経済、政治、法、宗教、教育、言語、道徳などが、……「狭義の社会」たる家族、学校、企業、官庁、村落、都市、国家、国民社会、群衆・市場・社会階層・民族などとあわせて、この広義の社会を構成する諸要素である。広義の社会は学問分野を自然科学と社会科学に分かつさいの社会であるから、社会学の研究対象としての社会よりも当然ずっと広い」<br />「学問が分業化によって進歩している現代において、社会学を社会科学の全体と同じにするといった提言を、まともに受けいれることができるであろうか。／にもかかわらず、広義の社会が狭義の社会と同じ言葉で呼ばれていることのために、混乱がひきおこされてきた。社会学者の中にさえ、社会の語を広義の社会としてしか認識できない人があり、彼らによって「総合社会学」という主張がなされてきた。社会学が社会科学の全体であるかのように主張するこのような見解は、社会学はユニディシプリナリーな独立の専門科学ではあり得ないといっているのに等しく、それは社会学をディシプリンでないというに等しいから、このような見解を受け入れることはできない。かかる混乱は、社会という語の多義性に災いされて、狭義の社会を広義の社会からはっきり区別しないで考える、不正確な思考に由来するものである」（富永健一『社会学講義――人と社会の学』中公新書）<br /><br />「近代の社会科学は、経済学、法学、政治学、等々と専門科学に分化してめざましく発展しました。理論のモデルをはっきりと作るために、社会現象の、ある面をだけに絞って抽象化することは、有効な方法です。……けれども現実の人間は、経済学的な動機の他に、愛や怒りや自尊心や正義感など、さまざまな動機によっても動かされていて、また現実の巨大な社会は、経済現象、法や政治や宗教や倫理や教育やメディアやテクノロジーのような、他のシステムがからみ合っています。……社会学は〈越境する知〉Einbruchslehreと呼ばれてきたように、その学の初心において、社会現象のこういうさまざまな側面を、横断的に踏破し統合する学問として成立しました。……けれども重要なことは、「領域横断的」であるということではないのです。「越境する知」ということは結果であって、目的とすることではありません」<br />「人が学問を志す、その志の〈初めの炎〉を保ちつづけるということ、自分にとって、時代にとって、人間にとって、あるいは人間を含む一切の存在にとって、本質的に切実な問題を問いつづけるために、そしてこの問題をどこまでも問い続けるということのためにだけ、あらゆる個別の学問の領域を仕切る国境を超え続けること、この越境する鮮烈な問題意識の内にだけ、社会学という〈遊牧する学問〉のアイデンティティは存在している〉」（見田宗介『社会学入門――人間と社会の未来』岩波新書）<br /><br />「「全体」や「それ自体」を考えることで、特定の制度という枠を超える。残りものという形で、特定の制度内に回収できないものを考える。そのおかげで、社会学は既存の制度からこぼれおちるものや、制度になりきれない制度性の断片をあつかうことを得意技にできた。いやむしろ積極的に、今はまだ制度になりきらないものをせっせと発掘し、そこに社会的な意味を見出してきたと言った方がよい。……発掘品のいくつかは、すでに社会学の手を離れて、既存の制度の学に吸収されつつある。……開発した領土が社会科学として成功すればするほど、社会学の手から離れていく。……社会学という学問はつねにそういう運動のなかにある。／だがそれだけが越境ではない。……議論を立てることは、正しい／正しくないという境界を引くことである。社会学でもそれは変わらないが、それで終わりではない。一度引いた境界線を自分自身で踏み越えなければならないのだ。「全体」や「残り物」狙いの戦略が正しいと思っていなければ、社会学はできないが、それが全面的に正しいと思っていても、社会学はできない。社会学の選んだ戦略には根源的なあやしさがついてまわる。それを否定したとき、いいかえれば自らのあやしさをあやしさとして見つめられなくなったとき、社会学者は一番大事なリアリティーを失ってしまう」（佐藤俊樹「社会学の領域って一体なんだろう」、『新版　社会学がわかる』朝日出版社）<br /><br />「社会学は、社会の進歩とともに歩んできた学問で、たかだか一世紀あまりの歴史でしかない。でき上がった学問というよりも、「ものの見方」とでも言うべきものである。／なにごとも、人間の行為の産物であり、人間の制度の帰結である。社会学の任務は、その制度が絶対のものではなく、変わりうるものだということを、常に主張していくことではないだろうか。そして、人間が生きていること、個々人の意味世界をベースにして、人間が生きにくいような制度は変えるべきだという抗議の声をあげるのが社会学ではないだろうか。／そこで、一九世紀から二〇世紀、そして二一世紀へというこの社会の変化を、長い目で見るみるべきだと思う。長い目でみたうえで、現在、いろいろ引きずっている過去の制度のしがらみに対して、（昔の言葉でいえば、「批判」であるが）それがいつ、誰の責任でこういう制度にでき上がってしまったのかをはっきりさせ、そのことを通じて、その制度が変わりうるための条件を明らかにしていく――社会学は、こうしたスタンスで問題を研究していくことだと言えるのではないだろうか」（橋爪大三郎『橋爪大三郎の社会学講義』ちくま学芸文庫）<br /><br />「社会学とは、究極的には物質的な生活条件によって規定される歴史の流れの中で、人びとの主観的な意識や社会的な観念、さらには人と人が具体的に日々関わり合う相互作用のあり方によって、その歴史の流れにどのような限定的な、しかしときとして決定的な影響をもたらすかを明らかにしようとする学問原理である」（玉野和志「社会学とはこういうものだ」、玉野和志編『ブリッジブック社会学』信山社）<br />「……社会にたいして国家が優先してきた日本においては、学問の世界においても法学が尊重され、続いて経済学が地位を確立し、社会学はいまだ実学としての地位は認められずに教養的な知識としてかろうじて存続しているだけである。／しかし、実は社会学こそが尊重され、実学としても利用されるようにならないと、新しい国家のあり方すらも展望できない状況にあることが、徐々に理解できてきたのではないのだろうか。我々の前にはかつてきた道にもどるか、戦後の民主主義という人々（＝社会）の決定を尊重する新しい国家を改めて構築するかという二つの選択肢しかないのである」（玉野和志「社会と国家の距離感」、玉野和志編『ブリッジブック社会学』信山社）<br /><br />「一般に、複雑なシステムでは、システムの作動が一巡・二巡した結果、意外な事物が、意外な危険をまねき寄せがちである。もちろん社会システムもその例にもれない。……社会科学はもともと、こうした危険を告発することを、重要な使命のひとつとしていた。社会システム理論は、こうした伝統への回帰を提唱する。社会システム理論は、システムの作動の前提と効果にたいする洗練された敏感さを養うための、一貫した方法なのである。／そこでは、システムの作動をできるだけ先回りすることがめざされる。もちろん、先回りする言説の機能もまた、先回りの対象である。論理的には終わりがないこうしたプロセスは、限界効用が逓減するまで続けられることになる。これは、政治的なマイナス効果（たとえば利敵行為）をおそれて先回りの範囲をコントロールする「政治的啓蒙」とは異なる。……だから、社会システム理論がめざすこうした方向性を「社会学的啓蒙」と呼ぶことができるだろう」（宮台真司『制服少女たちの選択――After 10 Years』朝日文庫）<br />「すなわち、「道徳感情」の共有によって「神の見えざる手」を支える「モラルエコノミー」と「そこの抜けた再帰性」を是々非々で制御する「共同体的自己決定」との間の、再帰的＝相互強化的な循環を構築・維持するべく、価値の埋め込みを含めた社会環境の設計を行うのが、社会学の使命なのです」（宮台真司『日本の難点』幻冬舎新書）<br /><br />「こうした社会学的啓蒙において、「社会的」という言葉がそれに固有の価値を喪失していくのは、ある意味で必然であり、さらに言えば（狭義の）社会的なものを含む諸々の価値すべてについて、その遇有性を開いていく以上、社会学、あるいは社会学的啓蒙は、それ自体がすでに、少なくとも消極的な意味でのリベラリズム――だが、シニシズムに近いリベラリズム――であった、価値の多元性を常にすでに認めざるをえない。／しかし、以下のことに注意しなければならない。社会的という言葉の論理階梯の引き上げにせよ、そのことによって社会学者が、高みに立つということはありえない。ある価値に定位して行為する人びとにとって、その価値を可能なものの一つとして言わば脱臼させる社会学者は、その「上」に立っているのではない。その価値を共有しない人、場合によっては敵として、その人びとの「横」にいるのである。……と同時に、社会学（者）は、社会の「外」に出ることも最終的にはできない」（市野川容孝『社会』岩波書店）<br /><br />「人はみな、違っている。にもかかわらず、私たちはいやでも、どこかで他人とつながっていなければ生きていけない。そして、たとえば家族という空間、組織・集団という空間、地域社会という空間、ネットワークという空間、国という空間、そして地球という空間を、濃淡はあるにせよ、どこかで他人と共有していかなければならない。異なる人間たちが、限られた空間のなかでともに住みあっていくことを可能にする知恵あるいは仕掛けの総体、とりあえず、これを「社会」と呼んでおこう。……では、社会ははたしてどこにあるのか。……社会とは人々の集まりの中にある。人々の心の中にある。そして人々の記憶の中にある」<br />「社会学は「自分探し」の手段では決してない。しかし、私＝「自分」を通過しない社会はリアルなものとはなりえない。そこで獲得される淡い実感、しかし確かな感覚を経由することなしには、社会学は社会に着地することができない」（浜日出夫「新しい社会学のために」、長谷川公一ほか『社会学』）<br /><br />「社会についてなぜ考えるのか。少なくともそれは、どうしたって生きなくてはならないこの社会をよりよく知ることを可能にする。しかも普通言う意味で「社会について知る」ということは別の仕方で、そうした「知り方」がさまざまに可能な知り方のひとつであるということも含めて知ることを可能にする。そしてそれによって、私と社会との関係がこれまでとは違った見方で見えるかもしれず、そのことが私や私の生きる社会が抱える問題や可能性について、より大きな視界を与えてくれるかもしれない」<br />「「私」という存在は、さまざまな他者や事物との共時的、通時的なつながりの中の「結び目」のようなものとして存在している。それは、私という存在が「社会の中」に存在しているということだ。……私は社会の中に、つねに社会から遅れて現れている。私も、私の日々の生活も、社会の中で生じる社会的な出来事なのだ」（若林幹夫『社会学入門一歩手前』NTT出版）<br /><br />「まず「あたりまえ」の世界で、さまざまな縛りを受けている「わたし」の姿を見つめる。そして、他者とともに生きる「いま、ここ」で、「生きづらさ」「生き苦しさ」の正体を読み解いた後、それらを一気に否定するのではなく、「生きる手がかり」として、いかにしたら“活用”できるのかと発想を転換し、「いま、ここ」での新たな生き方を模索していく。／ある瞬間、これまでの生活を一新するような「生き方」を手に入れることができるかもしれない。そう簡単にはうまくいかないかもしれない。／いずれにしても、「あたりまえ」を常に疑い、「普通であること」に居直らない「ものの見方」が、いかに「わたし」という存在を心地よく変えていってくれるのか。そうした社会学的な見方や営みの可能性があることを知ってほしいと思う。……〈ひと〉の生と出会う社会学。それは“学ぶ”ものではなく、自分なりに“生きる”ものだ。これだけは、まちがいない」（好井裕明『「あたりまえ」を疑う社会学――質的調査のセンス』光文社新書）<br /><br />「今日の社会学は、とりわけ多様性のなかにある。そしてそれは、社会学が他のどの学問よりも、それがそのなかで形づくられてきた社会の在り方を反映していることの表れである。社会学はまず何よりも、意識するしないにかかわらず、対象としての社会と先行する社会学理論によって形づくられる。社会学者は、定義し記述し説明しようとする社会と先行する社会学理論とに対して、いつもすでに一定の態度をとっているからである。だがそればかりではない。社会学者はまた自らの日常生活をも生きている。それゆえ、社会を対象とする社会学者はとりわけ、それがそのなかで形づくられる社会のあり方によって根底的に規定されている。そして今日の社会は、もはやそれに関する包括的で大きな物語が成り立ちえない社会なのである。／そうした社会にあっては、人はつねに自らが社会学者であらねばならない」（那須壽「社会学への招待」、那須壽編『クロニクル社会学』有斐閣）<br /><br />「社会について考えることなしに、「社会学が何の役に立つのか」と論じることはできない。そもそも、われわれ一人一人にとって何が役に立つのかを判断するためには、各人が直面している社会状況を考慮に入れる必要があるのだから。すなわち、「なぜ社会学なのか」と問うことは、すでに間接的に社会について語っているということであり、したがってそれに答えるためにこそ社会学を学ばねばならないのである。逆にいえば、「なぜ社会学なのか」と問うこと自体が社会学の実践なのだ。――ちょうど、「いかに生きるべきか」と問うこと自体が、「そのようなことは考えない」という生き方を排除しており、その意味ですでに一定の生き方の選択を示しているのと同様に、である。／だからまずは社会学を体系的に学ぶ必要がある……などと言うつもりはない。逆である。「なぜ社会学か」と問うことを含めて、われわれが何をし、何を考えようと、それが社会のなかで生じている以上、そういった行為や思考はすでに社会学の対象であると同時に社会学の実践でもある、ということになる。したがって社会学とは要するに、何をやってもいいのである、と」（馬場靖雄『社会学のおしえ』ナカニシヤ出版）<br /><br />「「社会とは何か」とは、いかにも抽象的で遠回りにみえる問いである。だが、どこかでそんな問いをもってしまわざるをえないことが、社会学を学ぶ理由ではないのだろうか。「社会とは何か」という問いは決して酔狂な問いではない。人が世の中を生きていると、いろんな出来事に出会い、思いもよらぬことを知り、あるいは考え悩み、そしていつしか抱くことになる問いである。それは「自分とは何か」、「人間とは何か」、「生きるとはどういうことなのか」……といった問いと密接に重なっている。／重要なことに、この種の問いは「……とは、こうです」というふうに答えられるものではない。それは問いが立てている「主語」（自分や、人間や、生きることや、社会や、……）そのものを問題化し、解体し、変容させるなかではじめて、本当に何事かを見いだしうるような問いだからである。実際、重要な問いは、ただ「答えを得る」ためというより、その問題をめぐって自分の思考を極限まで深めるためにあるというべきだろう」（内田隆三『社会学を学ぶ』ちくま新書）<br /><br />次回の更新は鈴木弘輝です。 ]]>
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<dc:subject>研究員　渡邉悠介</dc:subject>
<dc:date>2009-05-19T13:43:23+09:00</dc:date>
<dc:creator>modernphase</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
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<title>「大人ぶる」ことと「大人になる」こと</title>
<description> 所長　鈴木弘輝※諸都合により、今回の内容は、僕（鈴木弘輝）が自分自身のブログで書いた文章の続きになっています。興味のある方は、そちらの方も合わせてお読みください。　ＵＨＦ局であるｔｖｋで「サクサク」という番組が、毎朝（正確には月～金）放映されている。そして、僕は最近の自分のブログでその番組が醸し出す雰囲気について紹介した。その際に意識的に心がけたのは、「大人ぶらない」「自分をかざらない」「粗野」と
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<![CDATA[ 所長　鈴木弘輝<br /><br />※諸都合により、今回の内容は、<a href="http://hirokisuzuki.blog105.fc2.com/" target="_blank" title="僕（鈴木弘輝）が自分自身のブログ">僕（鈴木弘輝）が自分自身のブログ</a>で書いた文章の続きになっています。興味のある方は、そちらの方も合わせてお読みください。<br /><br />　ＵＨＦ局であるｔｖｋで「サクサク」という番組が、毎朝（正確には月～金）放映されている。そして、僕は最近の自分のブログでその番組が醸し出す雰囲気について紹介した。その際に意識的に心がけたのは、「大人ぶらない」「自分をかざらない」「粗野」という言葉をかなり明示的に使うことだった。なぜなら、当たり前のように乱暴な言葉が飛び交う「サクサク」という番組の様子を、そのような言葉を使いながら、しかも好意的に示したかったからである。<br />　しかし、このような書き方をしてしまうと、僕がまるで「人間にはやはり、粗野で荒っぽいコミュニケーションが必要なのだ」と主張するようになったととられるかもしれない。まあ、別にそのようにとられても別にかまわないのであるが、それは僕自身が現在考えていることとは、少しズレている。<br /><br />　だから、僕が考えていることを自分なりに言葉にしてみることとする。それは、例えば「人々のコミュニケーションがあまりに『閉鎖的』『自閉的』になっている現状を打破しようとするのであれば、その過程で粗野なものや乱暴なものが浮かび上がってきても仕方がない」というものである。<br />　そして、そのことについてもう少し詳しく述べるために、今回の文章では《「大人ぶる」と「大人になる」の違い》というテーマを掲げたいと思う（なぜいきなりこの二項対立が出てくるのかについては、<a href="http://hirokisuzuki.blog105.fc2.com/" target="_blank" title="僕自身の以前のブログ">僕自身の以前のブログ</a>を読んでいただきたい）。<br /><br />　その前に、僕がここで想定する「『閉鎖的』あるいは『自閉的』なコミュニケーション」がどのようなものかを、あらかじめ述べておく必要があるだろう。それは、一言でいうと「かっこつけ」である。「外見を気にする」、「内側から外側を気にする」、「外側に対して内側を隠そうとする」という言葉でも、言い換えられると僕は思っている（このことについては、僕の個人のブログで以前に書いた）。　<br />　そして、そういったコミュニケーションが現在やや行き過ぎになっており、しかもそれを安易に肯定する風潮になっている観があるということが、僕は最近どうも気になっているのである。<br /><br />　そこで、先に挙げた「大人ぶる」と「大人になる」の違いを考えるために例として挙げるのが、やや唐突であるが、アンジェラ・アキの『手紙』という曲である。この曲はＮＨＫの『みんなのうた』で流れたことで話題になり、去年の紅白歌合戦でも歌われたヒット曲である。<br />　その曲がどのようなものであるかは各自で聞いていただきたいが、一応その歌詞の内容をまとめておくと、「15歳の『現在の自分』が他の誰にも相談できないことを、『未来の自分』にあてた手紙を送信した」、「大人になった『現在の自分』が自分の思っていることを、15歳の『過去の自分』に返信した」というものである。<br />　この曲は聴く者にかなりの感動を与える曲であるらしく、かくいう僕自身も、この曲を聞いて涙してしまった。しかし、この曲が相当ヒットしており、現在多くの人々の心をとらえているとなると、その風潮に対しては少し異論をさしはさみたくなる。<br /><br />　まずこの内容について気になるのは、「周囲の人々」というのがかなり否定的に捉えられているということである。「誰にも話せない悩みの種がある」と歌われているのであるが、普通に考えてみるならば、15歳の少年少女に悩みがある場合、まずは周囲の大人や友人に相談するのではないだろうか。<br />　もし、最初からその選択肢が「ない」というのであれば、その時点でその人たちは相当「追い込まれている」ということになるだろう。そして、この曲のこの側面がもしウケているのだとすれば、むしろその状況に関して「真剣に」考えるべきだろう。<br />　次に気になるのは、そのような「孤独に追い込められている」という状況にある「自分」に向かって、この曲がさらに「自分の夢を追いかける」という方向へ進むことを称揚していることである。<br />　しかし、これでは「信じられるものは自分しかいない」という意識を強化することになってしまい、15歳の彼ら／彼女らを「さらに追い込まれた状況」へと導くことになってしまっているのではないだろうか。なぜなら、「自分以外の誰にも言えない悩みの種」に対してアドバイスを送っているのも「自分」なのであり、しかもその内容が「自分の夢を信じて進め」というのでは、自家中毒になってしまう恐れがあるからである。<br />　しかも、この曲全体が感動的であるだけに、そのような「自分を孤独な状況に追い込んでいく」ことが「カッコよい」というイメージが広まることが懸念される。そのイメージとは、多少無理してでも周囲の人々に自分の悩みを打ち明けるのではなく、自分の悩みを「ただ自分だけのもの」として抱えながら「自分の夢」に向かって歩き続けることの方が「カッコよい」のだというものである。<br />　さらに、僕が最も気になるのは、この曲が「大人になっても心は15歳のままでよい」というメッセージを、暗黙のうちに含んでしまっているのではないかということである。なぜなら、「大人になった『現在の自分』」は、「15歳で抱いた夢をそのままに生きろ」と「過去の自分」にアドバイスしているからである。<br /><br />　このことについては、さらに述べてみたい。もし本当に「15歳のままの心を持った大人」というのがいるとすれば、それは「大人ぶった子ども」＝「大人の振りをした子ども」でしかないだろう。<br />　しかし、そのように育ちあがった人というのは、「ある一定の年齢に差し掛かって外見は『大人』に見える男が『僕ってどうしても15歳の気持ちを捨てられないんだよねえ』とか言う」というのとは違うと考えられる。<br />　なぜなら、その人は自分が「子どもっぽい大人」であることを、自分から他人に言うことができている。それは、「何いつまでもそんなこと言ってるんだ、バーカ」などと、他人から言われたりする可能性に開かれているということである。<br />　では、「自分のことを誰にも話せない」というところから出発している「子ども」が、「15歳の時の夢を抱いたまま進めばよい」との思いのまま人生を過ごした場合、その人はその先どのようなコミュニケーションを送るのだろうか。<br /><br />　少なくとも、他人から「子どもっぽい大人」とは認識されないだろう。何しろ、その人は自分が「子どもの頃の夢を抱き続けている」ということすら、自分で他人に表明しないのだから。そして、なぜそのようになっているかといえば、それは「自分のことを誰にも話せない」というところから出発しているからである。<br />　もし、何かしらを通じて「子どもらしさ」が表現されているのだとすれば、「年齢的には『大人』でも精神的には『こども』だなあ」と他人から思われるだろう。しかし、それは「子どもっぽい大人」なのであって、「大人の振りをした子ども」ではない。<br />　「子どもっぽい大人」というのは、「自分が子どもっぽい」ということを他人に表現できるぐらい十分に「大人」になっているということだ。そして、「大人になる」というのは、例えばそういうことを指すのである。<br /><br />　僕がここでいう「粗野なコミュニケーション」とは、「誰かの感情表現に対して、他の誰かが感情的に反応すること」を意味している。<br />　人間の遂行するコミュニケーションにおいては、ある人間による感情表現には、どうしても感情が動いてしまうらしい。だからこそ、ある人が他の人に対して感情を表現しようとするのであれば、それは必然的に「エゴイズム」を中心とする「他の人の感情表現」を誘発するのである。<br />　もっとも、もしある人がそういう事態に対して「理性的」にふるまっているのであれば、それは職業や家族といった役割に付随した何らかの訓練を受けていると考えてよいだろう。しかし、ここまで考えたがゆえにさらに推測されることは、「自分のことを誰にも話せない」ままに時を重ねた人が始動するコミュニケーションもまた、このような訓練を受けた人のそれと同様になるということである。<br />　「自分の感情を表現しないようにふるまう」という点においては、どちらも変わらない。そして、「子どもっぽさ」を表現しないのか、それともできないのかという点は他人からは無視され、両方とも「ただの大人」だと見られる。なぜなら、「表現しない／できない」といった内面における差異など、他人にはうかがい知れないからである。<br />　とはいうものの、訓練を受けた人は「本物の大人」であるのに対して、「自分のことを誰にも話せない」ままの人は、しょせん「15歳の時の夢をまだ抱いている」という点において「偽物の大人」である。これが、「大人の振りをした子ども」＝「大人ぶった子ども」の正体である。そして、この「大人ぶった子ども」が実はどのようなことを考えているかは、他の誰にも分からないのである。<br /><br />　現在の風潮は、ややもすると「大人になる」ことを「カッコわるい」こととし、「大人ぶる（が内心は子どものままでいる）」ことを「カッコよい」こととしがちである。しかし、このことを当事者たちだけのせいにしては、決してならないだろう。<br />　なぜなら、特に日本という地域においては、「感情を感情のままに表出する」というコミュニケーションの様式が十分に発達していないと考えられるからだ。しかも、「乱暴な言葉遣い」をなるべく排除する方向に、第二次世界大戦後におけるこの地域のコミュニケーションは進んできた。しかし、そのことが引き起こしている「派生的な効果」について、そろそろ「真剣に」考えるべきなのではないだろうかと、僕は考えるのである。<br /> ]]>
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<dc:subject>著作のご案内</dc:subject>
<dc:date>2009-03-17T01:14:11+09:00</dc:date>
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